尾崎谷斎(紅葉の父)の煙管筒 パート2


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さて、前回の記事でご紹介いたしました、鹿角の煙管筒。
これは根付師・尾崎谷斎の手によるものですが、
谷斎は明治文壇の巨匠・尾崎紅葉の父親でございます。

ここに「明治粋人奇人談」(著:吉村武夫/ちくま文庫)という本があるのですが、
この中で尾崎谷斎のことが取り上げられています。

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名人谷斎は奇行の人だった。なぜか外出の時、着物は当時流行の唐桟織で、
その上に赤い羽織と赤い頭巾を身につけていた。
円太郎馬車にも乗らず、尻はしょりで杖をつき、明治座や新富座などの芝居小屋や、
回向院の角力(すもう)小屋に出かけて行った。
小屋はどこでも木戸御免で、「福の神が来た」と喜んで招じ入れた。

谷斎は枡の間を往ったり来たりして、知合いや馴染の客を見つけ、
酒の相手をしたり芝居の軽い批評や取組の話などしてはご機嫌を取り結び、
小遣銭をせしめた。
このように幇間のようなまねをする谷斎を、「谷斎坊主」と蔑視する人もあった。
しかし人づき合いもよく、小さなことに気もつき、詩や歌も解し、書画、茶の湯も
一応おつきあい程度は出来たので贔屓筋からは可愛がられた。
飄飄とした人柄が愛され「谷斎がいないと淋しい」と座敷や湯治に
連れて行かれたこともあった。

幇間じみた素行と職人肌の、二つの性行の変人であった。

(抜粋)
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紅葉は、父・谷斎のことを快く思ってはいなかったようです。
紅葉は4歳のときに生母を亡くし、
その後は母方の祖父母に預けられ育てられたといいますから、
それも無理のないことかもしれません。
ちなみに谷斎の死因は、河豚(ふぐ)だったそうです。

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明治三十年頃、銀座のも組の組頭三橋竹松と、
初代のステテコ踊りの三遊亭円楽と仲が良く、誰が言い始めたのか、
品川沖に網打ちに出かけた。気の合った者同士の舟遊びは楽しかった。
捕った魚を船頭に料理してもらい、舟の上で食べたが、その中に河豚があった。

その夜、三橋竹松が死んだ。三橋の家内は、他の二人はどうかと
若い衆を谷斎の所にやった。その時谷斎は手足が痺れ、
舌がもつれて七転八倒している最中で、かけつけた医師も近所の人も
うろたえているところだった。谷斎も、その次の日に死亡した。

(抜粋)

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ところで、私がこの「明治粋人奇人談」という本を初めて読んだのは
2年ほど前のことでしたが、
その時はまさかこの谷斎の実際の作品が自分の元に入ってくるとは
思ってもいませんでした:shock::ase1:
何が入ってくるかわからない、まさかと思うような物まで入ってきちゃう、
これがくまねこ堂でのお仕事の一番の面白さであります:gakki:


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